2024年1月7日(日)から、NHKの新大河ドラマ「光る君へ」がスタートしますね。
その主人公の紫式部が”一次史料”にはどのように登場するのか、とりあげてみたいと思います。
紫式部について
ご存知のとおり紫式部は、はっきりと分からないことも多い人物です。
試しに辞書で紫式部を調べてみましょう。
平安中期の女流物語作者で、歌人。中古三十六歌仙の一人。本名未詳。女房名「紫式部」は「源氏物語」の登場人物紫の上と、父の旧官名による。藤原為時の女。藤原宣孝と結婚し賢子をもうけたがまもなく死別。寡婦時代に「源氏物語」を書き始め、道長に認められて一条天皇の中宮彰子に仕えた。また、皇子誕生、女房評などを書いた「紫式部日記」、家集「紫式部集」がある。天元元年頃~長和三年頃(九七八頃-一〇一四頃)(『精選版 日本国語大辞典』)
このように生没年や本名なども、諸説があって確定されていません。
実際、歴史学でいう一次史料ではっきりと紫式部について書かれたものは一つしか存在していません。
本記事では、「光る君へ」の時代考証をご担当されている歴史学者の倉本一宏さんの『紫式部と藤原道長』(講談社、2023年)を参考にして、紫式部が登場する史料をみてみたいと思います。なお、以下倉本さんの説は全てこの本によるものとします。
「越後守為時の女」
確実に紫式部だといえる人物が登場する一次史料は、藤原実資(957〜1046年)という貴族が書いた日記『小右記』の記事です。
そこでは、「越後守為時の女」と記されています。藤原為時の娘とされているので、これが後世に紫式部といわれる女性だと考えられるわけです。
ではその記事をみてみましょう(以下、日記史料は摂関期古記録データベース (nichibun.ac.jp)を参照して訳しました)。
『小右記』長和2(1013)年5月25日条
〇現代語訳
二十五日、乙卯。資平(実資の養子)を昨夜、密かに皇太后宮(藤原道長の娘彰子)に参上させ、東宮の御病気のあいだに、休暇によって参上しなかったことを申し上げさせた。今朝、帰って来て言うことには、「昨日の夕方に、女房に会いました。〈越後守為時の女である。この女によって、前々から雑事を申し上げさせていた。〉あの女が言ったことには、『東宮の御病気は、重くはないとはいえ、やはり未だにいつもの御体調ではいらっしゃらないうえに、まだ熱が散じられていません。また、左府(道長)も少し患う気があります』とのことでした」ということだ。
この1個の記事に「越後守為時の女」と記されていることがあって、歴史学の立場からは紫式部が実在した人物だといえるのです。
ちなみに倉本さんは、この記事の前後にみられる実資と彰子を取り次ぐ「女房」も、紫式部のことを指しているのではないか、と考えられています。
ただし上の記事以外には「為時の女」などとはなく、単に「女房」とあるのみなので、厳密にいえば100%紫式部だと言い切ることはできないのです。
例えば、次のように書かれています。
『小右記』長和2年3月12日条
皇太后宮が、(筆者実資の)病について訪ねさせた。〈女房によって、仰せ書を資平に送った。〉恐れ多く思うことを伝え申し上げるために、宮に参上させた。
このように、先の5月25日条とは違い、単に「女房」とあるだけなのです。
清少納言について
ちなみに、同じく平安時代の女性で有名な清少納言はというと、日記などの一次史料では存在が確認できません。
倉本さんは、「確実に実在した紫式部が記録した『紫式部日記』に登場するから、おそらく実在したのであろうという程度のもの」と、清少納言の実在性について表現しています。
おわりに
古代史においては、紫式部のような現在は有名な女性であっても、歴史学でいう一次史料で確認できる情報は非常に少ないことがわかりました。
紫式部の詳しい生涯や人物像、人間関係などは、多くは『紫式部集』に収められた歌の分析を通じて考えられてきたといえます。
紫式部以外のように、知名度に反して確実な一次史料が少ない人物を探して、その少ない史料をじっくりみてみるのも面白いかもしれませんね。
倉本一宏さんの本(出版社サイトより):『紫式部と藤原道長』(倉本 一宏):講談社現代新書|講談社BOOK倶楽部 (kodansha.co.jp)